仙台地方裁判所 昭和29年(ワ)513号 判決 1958年10月15日
原告 国
訴訟代理人 早川淳二 外二名
被告 渡波町 外二三名
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は、原告の負担とする。
事実
第一、当事者双方の申立
原告訴訟代理人は、
「牡鹿郡渡波町根岸字長浜所在の別紙目録各被告名下記載の土地が原告の所有であることを確認する。被告渡波町は、いずれも仙台法務局石巻支局昭和二十六年三月二十八日受附をもつてなした(1) 牡鹿郡渡波町根岸字長浜五十八番の二十保安林一町一畝十三歩を八町一反九畝十四歩とする反別変更登記、(2) 右五十八番の二十保安林八町一反九畝十四歩を同番の二十保安林七反六畝六歩外五十九筆 (同番の三十八ないし九十六)に分筆する分筆登記及び(3) 同字五十八番の二十三保安林二町三反九畝を五町一反四畝十三歩とする反別変更登記の各抹消登記手続をせよ。
被告渡波町以外の被告らは、それぞれ別紙目録各被告名下記載の土地についてなした同目録の登記原因欄及び所有権移転登記欄記載の各所有権移転登記の抹消登記手続をせよ。
訴訟費用は被告らの負担とする」
との判決を求め、
被告ら訴訟代理人は、主文第一項と同旨の判決を求めた。
第二、請求の原因
(一) 被告町は、大正元年八月六日、当時の管内官有地の管理者であつた宮城県知事寺田祐之より牡鹿郡渡波町根岸字長浜五十八番砂漠四町四畝二十七歩の払下げを受け、同年十一月十二日これを同番の一ないし二十の二十筆に分筆し、地目変更のうえ、うち同番の八畑四畝三歩及び同番の二十原野三町四反十三歩を町有として保留し、その他は当時町民に売却した。しかして、右払下地五十八番砂漠四町四畝二十七歩なる土地は、被告町の作成提出にかかる開墾事業成功地売渡願添付実測図面(甲第五号証のロ)に基き実測面積四町四畝二十七歩を、代金反当り金三円三十銭として右面積に乗じ金百三十三円六十一銭で払い下げられたものであるから、右面積にはいわゆる縄延びの生ずる余地のないものであり、その範囲は、別紙図面記載(甲1)ないし(甲15)・(44)ないし(1) 、基点、(甲1)の各点を順次結ぶ直線で囲まれた部分及び(甲16)ないし(甲31)、(54)ないし(47)、(甲16)の各点を順次結ぶ直線で囲まれた部分である。右払下当時、右払下地の南側には海浜地が帯状に存在していたのであるが、その後大正六年以来、東方の万石浦に通ずる水路に沿つて逐次五ケ所にわたり防波導流堤が構築されたこと、北上川河口から排出される多量の土砂が風波のため吹き寄せられること等によつて右海浜地は年々その面積を増大した。
(二) 別紙図面記載(甲1)ないし(甲30)、(甲30)と(甲31)とを結ぶ直線と、(乙34)と(54)とを結ぶ直線との交点、(乙34)ないし(乙1)、(甲1)の各点を順次結ぶ直線で囲まれた九町九反三畝十四歩即ち別紙目録記載の係争土地(以下、本件係争地という)は、前記払下地の範囲外で、右払下当時は海浜地及び海面であつて、その後陸地となつたものであり、本来、原告の所有に属する土地である。
(三) しかるに、被告町は、その後本件係争地を前記五十八番の二十原野三町四反十三歩の一部であると称し、昭和八年四月六日及び昭和十年四月十一日の二回にわたり、本件係争地及び右五十八番の二十原野三町四反十三歩地上に宮城県をして砂防林を造成させ、保安林に編入せしめた。
終戦後一部町民によつて本件係争地は右五十八番の二十の範囲には属さないものであると唱えられるに及び被告町は急遽公簿の記載を訂正して爾後の紛争に備えようと企図し、昭和二十四年三月十八日所轄石巻税務署に対し土地台帳面の地積、誤謬訂正方を申請した。同署は右訂正願に不審を抱き東北財務局石巻出張所に照会した。そこで同出張所は現地調査の結果本件係争地が既往払下区域外であることが判明したので、本局の指揮を仰ぎ回答を保留していたところ偶々昭和二十五年八月、土地台帳に関する事務が税務署より法務局に移管された結果、仙台法務局石巻支局は昭和二十六年三月二十八日附をもつて、右五十八番の二十原野三町四反十三歩を同番の二十原野六反七畝歩及び同番の二十三原野二町七反三畝十三歩の二筆に分筆し、それぞれ保安林と地目変更のえう右五十八番の二十三保安林二町七反三畝十三歩を同番の二十三保安林二町三反九畝歩、同番の三十六保安林八畝十六歩及び同番の三十七保安林二反五畝二十五歩の三筆に分筆し、次で、前記五十八番の二十保安林六反七畝歩、同番の三十六保安林八畝十六歩及び同番の三十七保安林二反五畝二十五歩を合筆して五十八番の二十保安林一町一畝十三歩となし、さらに、右五十八番の二十保安林一町一畝十三歩についてその反別を八町一反九畝十四歩と反別変更し、更にこれを別紙目録記載のとおり五十八番の二十保安林七反六畝六歩外五十九筆(五十八番の三十八ないし九十六)に分筆し、又、五十八番の二十三保安林二町三反九畝について、その反別を五町一反四畝十三歩と反別変更し、夫々その登記手続をした。
また、被告町以外の被告らは夫々別紙目録各被告名下記載の土地について「登記原因」欄記載の日、その記載の事由に基づき被告町らよりその所有権移転を受け、「所有権移転登記」欄記載のように各所有権移転登記手続を経由した。
よつて、原告は被告町に対し別紙目録被告町名下記載の土地が原告の所有であることの確認を求め、且つ、前記反別変更、分筆の各登記の抹消登記手続を求め、被告町以外の被告らに対し、それぞれ別紙目録各被告名下記載の土地が原告の所有であることの確認及びその各被告名下記載の土地の所有権移転登記の抹消登記手続を求める。
第三、被告らの答弁並びに主張
原告主張の請求原因事実中、払下げ地の面積及び範囲が原告主張の通りであること並びに本件係争地が海面の隆起により自然に生成されたものであつて原告国の所有に属する点は否認する。その余の事実はすべてこれを認める。
被告町が国から払下を受けた土地は、本件係争地をも含む別紙図面記載基点(1) 、(2) ''
前記払下当時既に原野として存在していたものである。このことは渡波町小学校が明治三十三年、同三十六年、同三十九年及び同四十年に夫々本件係争地内にある別紙図面記載(甲4)、(甲5)の地点附近において運動会を挙行したこと、「かき取り寄合い」なる団体が明治四十二年頃内海三太郎兄弟の遭難死を供養するため、本件係争地の南側海岸寄りの別紙図面に供養塔と表示した地点に供養塔を立てたこと、被告町は、明治三十六年七月三十一日別紙図面に旧避病院と表示した地点に伝染病隔離病舎を設けたが、隔離病舎がその性質上海岸に接近した地点に建設せられることは考えられないこと等の事実からも明らかである。もつとも、被告町が前項払下に際し、宮城県知事に提出した土地払下願添附図面(乙第二号証)により四町四畝二十七歩の払下を受けたように見えるけれども、これは明治二十年作成にかかる官有地台帳図(乙第三号証)をそのまま転写したに過ぎないものであり、実測の上払下地域を確定したものではない。
もし、右図面が払下地域を表示しているものとすれば、該図面を現地に当てはめるときは、払下地の西半分は国有林に該当し、宮城県が国有林をも払下げたこととなる。この一事から見ても右図面は払下地域を指示するものでなく、払下申請書類の形式を整えるために官有台帳図(乙第三号証)を転写して添付したに過ぎないことは明白である。
しかしのみならず、被告町が本件係争地についても払下を受けたことは、以下の事実からも推察することができる。即ち、(一)被告町は大正十五年本件係争地の東側に船溜場を築造したが、、その際掘り出した土砂によつて右船溜場の南隣海面を埋め立てて、新たに造成した陸地(長浜六十番)は公有水面埋立法により同被告町の所有に帰したのであるが、これは被告渡波町において本件係争地について払下を受け、所有管理していたために外ならない。(二)被告町は本件払下直後本件係争地に植林を試み、その植樹が大正二年の海瀟のため枯死したが、大正十四年の町議会において再び植林が建議された。(三)被告町議会は宮城県当局の勧奨により昭和七年同八年度継続事業として砂防林造成事業を議決し、被告渡波町は宮城県から補助を得て、昭和七年九月十四日本件係争地に砂防林を造成した。そして右砂防林は昭和八年及び昭和九年の二回に保安林に編入された。(四)被告町が昭和十一年以来本件係争地のうち湿地帯約五千坪を訴外菊地勇造外約五十名に対し海産物干場として賃貸している。(五)宮城県知事は、被告渡波町において前記地積誤謬訂正を申請した際隣地者として本件係争地が被告渡波町の所有に属することを承認している。
以上の事実からみても本件係争地が右払下地の一部であることは明かである。
第四、被告らの時効取得の抗弁
仮りに、本件係争地が前記払下地の一部でないとしても、被告町は、昭和七年九月十四日本件係争地に砂防林を造成して以来前叙のごどく本件係争地を前記払下地の一部なりと信じ、所有の意思をもつて平隠且つ公然に占有しきたり、しかも占有の始本件係争地が払下地の一部なりと信じたことにつき過失がなかつたのであるから、これより十年以上を経過した昭和十八年四月五日取得時効完成して本件土地の所有権を取得するにいたつた。仮りに、過失があつたとしても、別紙目録中被告町以外の各被告名下記載の土地については同被告等において右目録所有権移転原因欄記載のごとく被告町らの占有を承継したから、被告らは別紙目録各被告名下記載の土地について昭和二十八年四月五日以降は二十年の取得時効の完成によりその所有権を取得した。
よつて、原告の本訴請求は、失当である。
第五、被告らの主張並びに時効の抗弁に対する原告の答弁
被告ら主張事実中、船溜場が設けられたことは争わないが、それは、昭和九年から昭和十二年までの間のことである。
本件係争地に砂防林が造成されたことは争わないが、これは農林省の補助職員としての宮城県技手によりなされたもので、被告町は単に受益者として経費の三分の一を負担したに過ぎないものである。
その余の被告らの主張事実は否認する。
又被告ら主張の抗弁事実は、これを否認する。
そもそも、国と地方公共団体とは、公法上特別の信頼関係に立つものであるから、両者の間には民法の取得時効に関する規定の適用はない、と解すべきである。のみならず、本件係争地は、前記砂防林造成当時海浜地であつて、国の所有に属するいわゆる公用物であるから、時効取得の対象となり得ない。
また、被告ら主張の砂防林は西半分が昭和七年より昭和十一年まで、東半分が昭和九年より昭和十一年までと前後二回にわたつて植樹されたものであり、しかも右造林並びにこれが管理は、農林省の補助職員たる宮城県技手によつて行われ、被告町はその経費の三分の一を負担したにすぎない。そして右砂防林は昭和八年五月六日及び昭和十年四月十一日の二回にわたり保安林に編入せられたが、その管理は宮城県が国の機関としてしていたもので、被告渡波町においてこれを管理占有していたものではない。しかのみならず、およそ砂防林の造成は潮風害、飛砂防止のためになされるものであるから、これをもつて取得時効の要件たる所有の意思をもつてする占有と目することは許されないばかりでなく、被告町においては右砂防林の造成によつて本件土地の所有権を取得する旨の町議会の議決を経ていない以上、始めからかかる意思を欠いていたものといわざるを得ない。仮りに被告町において右保安林を造成してこれを管理していたとしても、昭和十五年頃からは右保安林は荒廃してしまい、殊に終戦後は疎開者や引揚者がその地区に立ち入り、バラツクを建てたり菜園を作つたりして被告町の占有を侵奪し、以来被告町は本件係争地の占有を失うにいたつた。
以上いずれの点からみても、被告らの右取得時効の抗弁はその理由がない。
第六、証拠関係<省略>
理由
宮城県知事寺田祐之は内務大臣の出先機関として管内の官有地を管理していたが、大正元年八月六日被告町に対し、牡鹿郡渡波町根岸字長浜五十八番砂漠四町四畝二十七歩を払い下げたこと、被告町は大正元年十一月十二日右五十八番砂漠四町四畝二十七歩を五十八番の一ないし二十の二十筆に分筆し、夫々地目変更のうえ、うち五十八番の八畑四畝三歩及び五十八番の二十原野三町四反十三歩を被告町所有地として保留し、その余を当時の渡波町民に夫々売却したこと、被告渡波町が昭和二十六年三月二十八日五十八番の二十原野三町四反十三歩を五十八番の二十原野六反七畝及び五十八番の二十三原野二町七反三畝十三歩の二筆に分筆し、夫々保安林と地目変更のうえ、更にこの五十八番の二十三保安林二町七反三畝十三歩を、五十八番の二十三保安林二町三反九畝、五十八番の三十六保安林八畝十六歩及び五十八番の三十七保安林二反五畝二十五歩の三筆に分筆し、次で、前記五十八番の二十原野六反七畝と五十八番の三十六保安林八畝十六歩及び五十八番の三十七保安林二反五畝二十五歩とを合筆し、五十八番の二十保安林一町一畝十三歩とし、そのうえ、右五十八番の二十保安林一町一畝十三歩について、その反別を八町一反九畝十四歩と反別変更し、更にこれを別紙目録記載のとおり五十八番の二十保安林七反六畝六歩外五十八番の三十八ないし九十六の六十筆に分筆し、又五十八番の二十三保安林二町三反九畝について、その反別を五町一反四畝十三歩と反別変更し、夫々その登記手続をなしたことは当事者間に争いがない。
右払下地五十八番砂漠四町四畝二十七歩の範囲について原告訴訟代理人は別紙図面(甲1)、基点、(1) ないし(45)、(甲14)ないし(甲1)の各点を順次結ぶ直線で囲まれた部分及び(46)ないし(54)、(甲31)ないし(甲17)、(46)の各点を順次結ぶ直線で囲まれた部分であつて本件係争は含まれないと主張し、被告ら訴訟代理人は原告主張の地域の外に本件係争地をも含まれると主張するから、先づこの点について判断すると、成立に争いのない甲第五号証の一ないし六、七の(イ)(ロ)(ハ)(ニ)、八ないし十一(払下げ関係書類)、乙第一号証(閉鎖土地台帳)、乙第二号証(払下げ申請書添付図面)及び乙第三号証の一、二(官有地台帳)、証人菊地勇造の証書並びに検証、鑑定人塚田廉次郎の鑑定の各結果を綜合すれば、右土地の払下げは明治二十六年五月内務省告示第三十五号官有地特別売渡貸渡手続に関する件に基いて行われたものであるが、同告示によれば官有地の払下げを申請するには評価書を作り図面を添付すべきであるところ、該牡鹿郡渡波町根岸字長浜五十八番なる土地は土地台帳に四町四畝二十七歩と登載されまた戸長役場備付の官有地台帳に明治二十年十二月調整にかかる地積図が添付されてあつた。被告町は右図面に相応する形状、地積の土地が右五十八番であるとして、一応実地を踏んでその趣旨の図面を作成添付して右払下げ申請に及び、宮城県知事もまた同土地の形状地積が被告町の申請どおりであることを確認したうえ、代金を反当金三円三十銭の割合で計算し四町四畝二十七歩を代金百三十三円六十一銭と定めて、これを被告町に払下げたことを認めるに充分である。しかして、その土地の範囲を現地について確定するのに右申請書添付図面を現地にあてはめてみると別紙図面記載(44)と(甲16)の各点を結んだ線以西の部分は既存の国有林と重復する不合理を生ずることからみて、同図面は必ずしも実地に則して作成されたものとはいい得ないけれども、現地につき払下地域の境界を指示特定して払下げたことを確認するに足る証憑のない本件においては右払下申請書添附図面により四町四畝二十七歩を払下げたものと認めざるを得ないから、むしろ右図面の形状に最も近似し、且つ右払下げ地積の範囲内である同図面記載基点、(1) 、(2)'
もつとも、成立に争ない甲第六号証の一、二、第十三号証、第十四号証の一ないし三、四の(イ)(ロ)(ハ)、第十七号証の一、二、乙第五号証の一、二、第六号証の三、四、第十号証の四、五、証人門脇金三郎、石川憑記、内海太治郎、内海兵助、菊地勇造の証言、被告代表者三浦今治本人尋問の結果(第一、二回)等によれば被告町が払下後前記認定の四町四畝二十七歩の以南の地域をも占有使用していた事実を認めることができるけれども右事実を以て直ちに本件係争地をも併せて払下を受けたものと推認することができない。
従つて、本件係争地は前示払下地五十八番砂漠四町四畝二十七歩の範囲には含まれていたものと認めることはできない。
次に、被告ら訴訟代理人主張の時効取得の点について判断する。
原告訴訟代理人は、国と地方公共団体とは公法上特別の信頼関係に立つものであるから、両者の間には民法の取得時効に関する規定の適用がない旨主張するけれども、所有権の帰属に関する民法の規定は原則として国の所有物に対しても適用され従つて取得時効に関する規定も適用されるものであるところ、国と地方公共団体とは公法上特別の関係があるからといつて、特に両者の間に民法の取得時効に関する規定の適用を全面的に除外すべき正当の理由を見出すことはできない。ただ国の公共用財産はそれが国において直接公共の用に供しまたは供すべきものと決定されたものであるということから、いわゆる不融通物として取得時効の規定の適用の外に置かれるのはいうまでもないが、公共用財産といえども国がその公用を廃止しまたは廃止したと認むべき事情の発生した後においては取得時効の目的となり得る、と解するのを相当とする。
成立に争ない甲第六号証の一、二、第十四号証の一ないし三、同号証の四の(イ)(ロ)(ハ)、乙第六号証の三、四、第十号証の四、五、被告町代表者三浦今治尋問(第二回)の結果により成立を認める乙第五号証の一、二、証人石川民記の証言によれば、被告町は昭和七年町議会の議決を経て、その所有の五十八番原野三町四反十三歩の範囲には本件係争地をも含むものとして本件係争地に砂防林を三ケ年にわたつて造成することを計画し、同年八月宮城県から派遣された石川民記らに対し本件係争地は被告町所有の五十八番の二十原野三町四反十三歩の一部であると指示説明し、本件係争地を調査、測量したうえ、宮城県から補助金の交付を受けて同七年十月頃先づ本件係争地の南外側に存する前線砂丘に堆砂垣を設け、本件係争地に造林の準備施設を施し、次で昭和八年三月から本件係争地の範囲に植林を始めたことを認めることができる。そして前示砂防林のうち別紙目録五十八番の二十三地上のものについては昭知八年五月六日、別紙目録五十八番の二十三以外の土地上のものについては昭和十年四月十一日、それぞれ保安林として編入されたことは当事者間に争いのない事実である。又内海大治郎の証言により成立を認める乙第九号証の一ないし三、証人内海大治郎の証言、被告渡波町代表者三浦今治尋問(第二回)の結果によれば、被告町は昭和十年頃から同二十年頃まで訴外菊地勇造ら一部町民に対し、本件係争地の一部である別紙図面「乙十二」、「乙十三」から船だまり辺までを水産物乾燥場等として賃貸して来たことを認めることができる。
右の事実から被告渡波町が本件係争地をその範囲として造林を計画して実地調査測量し、堆砂垣を設け準備したうえ、昭和八年三月植林を始めたことにより本件係争地全部について所有者として支配していたことは明かであり、所有の意思で平穏、公然に占有を始めたということができる。
証人山本敏郎の証言によれば、明治四十年頃別紙図面表示「甲四」、「甲五」の附近において渡波小学校の運動会を催したことを認めることができる。又明治四十四年頃海難者の慰霊のため、別紙図面に供養塔と表示してある地点に供養塔が建立せられ現在も存在していることは証人内海庄治の証言、検証の結果によつて認定することができる。
右認定事実と前掲甲第十四号証の四の(イ)(ロ)(ハ)、乙第五号証の一、二、証人石川民記の証言により成立を認める乙第七号証に証人石川民記、内海大三郎、内海庄治、内海大治郎、門脇金三郎の証言、被告渡波町代表者三浦今治尋問(第一、二回)の結果及び検証の結果を綜合すれば、昭和七年八月頃、当時本件係争地に接続し、その南側には固定した砂丘があり、その上にはハマヒルガホ、コウボームギ、オニシバが発生し、そこから波打際までは三十米ないし五十米の距離があり、本件係争地の地盤は固定してケカモノハシ、ハマニンニク、コマツナギ、ウンラン、ハマホーフー、ハマニカケ、オニシバ等が繁茂していた状態であり、本件係争地は当時において既に普通の原野の状態であつたこと、本件係争地が当時海浜でなかつたので、宮城県当局は現地を調査の上被告町の所有地と信じて被告町が本件係争地に砂防林を造成するにつき国庫助成金を支出したことが認められるから、昭和七年八月当時においては本件係争地は国の普通財産として時効取得の対象となるものと認めなければならない。
被告渡波町代表者三浦今治尋問(第一、二回)の結果及び検証の結果によれば、被告渡波町は前示造林後これを管理し、本件係争地を被告渡波町有地として平穏、公然に管理占有していたが、被告渡波町以外の被告らは本件係争地のうち各自別紙目録各被告名下記載の土地について、その記載の日その記載のような事由で被告渡波町から占有を承継し(この点については当事者間に争いがない)、被告渡波町は本件係争地のうち右以外の部分についてなお前記占有を継続し今日に至つたものであることを認めることができる。
原告訴訟代理人は、終戦後疎開者、引揚者が本件係争地に立ち入りバラツクを建て菜園を作つたりして被告町の占有を侵奪した旨主張するけれども、被告渡波町代表者三浦今治尋問(第二回)の結果及び検証の結果によれば、昭和二十年頃にいたり引揚者が居住の場所がなかつたので、町有地であることをよいことにして前記保安林の一部分を伐採し家を建てて在みついたが、被告町は引揚者なので強いてその立退きを求めず今日に至つたことを認めることができるから、右事実を以て被告町が本件係争地についてその占有を失つたものということはできない。
してみると、被告らは本件係争地について遅くとも前示砂防造林事業の実施に着手した昭和八年三月から少くとも二十年を経過した昭和二十八年三月、時効によりそれぞれその占有部分の所有権を取得し、原告は係争地の所有権を喪失したものと言わなければならない。
してみると、被告らにおいて、昭和二十八年四月六日をもつてそれぞれの占有部分の所有権を取得したと主張するのは理由がある。
よつて、本件係争地について原告に所有権があることを前提とする原告の本訴請求はその余の判断をまつまでもなく失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 新妻太郎 渡部吉隆 磯部喬)
別紙図面<省略>